22.福島県新地町 被災地報告会
福島県新地町被災地報告会(7/26[金]明日香美容文化専門学校大ホール)
ふくしまっ子応援プロジェクトに引率されてこられた新地町の小学校の先生とPTA連合会会長より、教育現場から行なっている復興活動、また、子ども達を保護者の立場で見守る、お母さんの視点での報告をしていただきました。
新地町の皆さんとは、支援活動を通してつながりが出来ました。震災当時は原発の問題がよくわからない状況の中で、子ども達が窓も開けずにクーラーも効かない教室で勉強していたということで扇風機を送ったこともありました。また、相馬市と新地町小中学校に大分県の県木である豊後梅を3年前に植樹しました。この豊後梅と子どもさんたちの成長を重ねて一緒に見守る活動を続けて来ています。
渡邊博之校長と佐藤和子教頭のご報告(抜粋)
2011年 3月11日、午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震で、新地町では震度6強の激しい揺れが私たちを襲いました。
何かにつかまっていなければ立っていられない激震が3分前後続き、その後も強い余震が断続的に発生しました。
そして約1時間後の午後3時40分、新地町沿岸を想像を超える規模の大津波が襲い、約15m以上の高さの大津波が襲ってきた所もありました。
この大津波は、防波堤や護岸を乗り越え、港や住宅地を襲いました。多くの尊い命が奪われ、家などの貴重な財産も町もそして家族の生活も一瞬にして飲み込んでしまいました。
この大地震は地震被害と津波被害だけでなく、福島県には原発事故による放射線被害と2重、3重の被害を与えました。また、原発事故は様々な風評被害や原発から30㎞圏内にある小中学校、高等学校は学校存続の危機という誰も考えもしなかった被害も受けることとなりました。
相双地方で亡くなった児童生徒は79名、教職は3名です。
東日本大震災を経験して、4つの大きな課題を検討してきました。
①「防災マニュアルの改善と実際場面を想定した訓練の実施」
②「避難所としての運営マニュアルや設備の改善」
町内では5カ所の避難所が設けられ、最大時で1750人の方々が避難されました。この3校が避難所となりましたが、3校に合わせて1141名、全体の65%が学校に避難しています。いかに災害が発生した場合、学校が避難所としての重要な拠点となっているかがわかります。つまり学校は避難所としての役割があり、その役割を果たすのに必要な設備等の充実が望まれます。
③「情報ラインの複数化」
④「原発被害への対応」
学校は再開したが安全なのか、どれくらいの放射線量なのか、保護者の方々は大変不安でした。そのため、正確な情報を保護者に発信することが教育の復興には大変重要でした。
課題解決に向けて取り組んだ成果
○町内での連携した取組による防災体制の共有化
○教職員の防災教育に対する意識の向上と実践力
○引き渡し体制と連絡系統の確立による保護者の啓蒙
課題
○日常的な防災体制の意識化
○地域との連携による防災教育のあり方
○防災関係施設・設備の維持管理
地震が起きたら
PTA会長の太田さんのご報告(抜粋)
私の自宅は、新地町釣師浜海水浴場が目の前にありました。夏には毎年、新地町主催の「遊海しんち」のイベントがあり、夜には盛大に花火大会が開催されておりました。
お盆の時、釣師浜部落は、迎え火を各家庭が同じ時刻に焚いており、きれいな火の直線が描かれ、ちょっとした風物詩になっておりました。
震災の特、大津波警報が出ているにも関わらず釣師部落の住民は、のんびりしておりました。
壊れたブロック塀を片付けるお年寄り、家の中を片付ける人など、まだ、余裕を感じていたのです。
一年ほど前に、チリ地震では津波注意報が出て、多くの住民が高台に避難しましたが、約1メートル20センチの津波が襲来しました。ほとんど被害がなかったため、「今度もそうだろう」と思った人たちが多くおりました。とりあえず私は貴重品を持ち、子供たちと海が見える高台の中学校の駐車場に避雖しました。
そこから海を見ていると、水平線に白くモヤがかかっているように見え、下のほうから黒い層がせりあがってきました。二艘の船がそれに向かって進んで行くのを見て、島肌が立ったことを覚えています。その津波を乗り越えて船は見えなくなりましたが、津波はますます高さを増し、陸地に近づいてきました。
車の中で子どもたちが、「まじ?まじ?」「うそだろー」「やばくねー」そんな言葉しか出てきませんでした。
大津波は陸地まで到達すると、家よりもはるかに高い15メートル?17メートルの大波が上から崩れてきて、地面をたたきました。その時の波しぶきは真茶色で、爆弾が爆発したように天高く舞い上がっていました。
私達が住んでいる部落は、一瞬にして全滅しました。しばらくみんなは言葉が出なく、放心状態でした。震える手で、主人にメールを入れ自分たちが無事な事を伝えましたが、主人は家族はダメかもしれないと心配していたそうです。
「これって現実?」「あの家には帰れないの?」「夢?」「映画?」「これからどうすればいいの?」いろいろな言葉が頭の中を回っていました。高台に避難してきた同じ部落の友人と肩を抱き合い、互いの名前を呼びあいながら、ただただ、立ちすくんでおりました。
その日の夜は、中学校の教室を間借りし、絶えず襲ってくる余震におびえながら、電気も暖房もない寒さの中、近隣の住民のご厚意で借りたシートと毛布に、避難してきた子供たち十人ほどを、くるんで寝かせました。想像を超えた出来事に、世界の終りのような感じを抱いた一夜でした。
だんだん空が明るくなり始め、「こんな時でも朝は来るんだなあ」としみじみと思い、夜明けの海をじっと見つめていました。その光景は皮肉にも朝日が水面にきらきらと反射してとても綺麗なもので、昨日の出来事がうそのように、いつもの「海」に戻っていました。そして、「やけに海が近いなあ」と感じました。何も考えることもなく、すっかり形状が変わってしまった海をしばらく眺めていました。
その日から私たち家族の避難所生活が始まりました。亡くなった人、行方不明の人、そんな話を聞くと胸が痛くなりました。新地町116名が命を落としました。なかでも、長女の同級生が自動車教習所で津波に襲われ、十名が亡くなっていたことでした。小さい時から成長を見てきて、ともに大きくなり、ともに泣き・笑い、これから社会に出て活躍しようと大きな夢と期待を抱いていたのに、震災により命を絶たれたことは、本人たちも悔しかったと思いますし、親としても、耐え難い出来事だったと思います。
震災から十日後、その子の家族からガレキの中から遺体が発見されたという連絡、「やっと見つかった。でも、もう帰ってこない。」とのメールをもらい、娘と二人で涙を流しました。
私は、家はなくなりましたが、家族が全員無事だったことを幸せと受け止め、「今を大切にしていこう。命を大切にしていこう。」と思いました。
福島県は、津波のほかに原発の被害も深刻で、あの日は「津波が来るぞ」との誤報と、原発の爆発が重なり、避難所である中学校は、避難してくる人で大混雑。一切窓を開けることは許されず。外に出ようとすると消防団員から「被ばくする気か」と激怒されました。
見えない恐怖に、皆の顔が緊張した面持ちで、「ここに居ても大丈夫なの?」「どこかに避難しなくてもいいの?」など、初めての経験に戸惑っておりました。夕方になり、避難してきた近所の人たちが自宅に戻り始め、私たちも落ち着きを取り戻しかけたのですが、福島県はどうなるのか・国は導いてくれるのか・福島県の子どもたちの将来はどうなるのか・色々なことが頭を巡り、動揺は収まりませんでした。
広島県の原爆のように、この町は被災してしまうのかと考えると、せめて子どもだけでも避難させようと決心し、秋田県の親戚に行かせることにしました。
震災の救助に来ていた自衛隊の車が列をなして撤退していくのを見て、ジタバタしている私に、友人が、「自分たちはどこにも行くところがないので、ここにいますよ」と話してくれました。その言葉で私は冷静さを取り戻し、「そうだよ。ここは放射線量も低いはず。大丈夫。新地町は絶対に大丈夫。今こそ親たちがしっかりしなくてはいけない。そして必ず子どもたちを迎えに行こう」と強く思ったのでした。
三か月後、町も、学校も、私たちも何とか通常の状態に戻ることができ、秋田県へ子どもを迎えに行くことが出来ました。
しかし、当時7歳の息子は、落ち着きがないように見え、人の目が気になったり、ささいなことで、大げさに泣いてみたり精神的に動揺した状況であり、親としてできることは、そばに付き添って見守ってやることだけでした。
そんな中、私がPTA会長を務めることとなり、子供たちが元気になることを一番に考え、「おかあちゃんの目線」でPTA活動に取り組もうと思いました。
まずは、子どもたちの環境づくりからと思い、プールの除染作業を行ないました。震災当時は町で除染作業を実施して頂いたのですが、2年目は、各学校で行なうことになりました。震災前は子どもたちがプールの清掃を実施していましたが、この時期に、子供たちに清掃させることはできないと思い、町と、消防機関関連に掛け合って、消防訓練の一環として高圧放水を行ってもらうことにより、除染を実施しました。
奉仕作業として保護者も110名参加して、デッキブラシや夕ワシなどでプールサイドやベンチまで丹念にこすった結果、0,2マイクロシーベルトあった絲量が0.06マイクロシーベルトまで下がりました。
保護者の思いは、釣師浜の海に入ることができない子どもたちをふびんに思い、せめてプールだけでも入れてあげたいとの思いでした。この親の思いは、子どもたちに伝わったことでしょう。現在、子どもたちは落ち着きを取り戻し、外に出なくても、学校での活動によりダンスで体力造りをしております。そのダンスを下級生にやさしく指導したことで自分たちへの自信となり、新地小学校の子どもたちは、いきいきと変わっていきました。
そして私たち家族はというと、応急仮設住宅に入居して二年が経過。今では、息子は、元気に仮設住宅の敷地を走り回っています。初めのころは、仮設住宅の狭さに戸惑っていました。生活音や振動が周りに伝わり、住人同士のトラブルが頻繁に起こりました。
しかしながら、「住めば都」で見知らぬ住人達とも今では交流があり、トラブルも少なくなってきたと感じております。
台所のかたわらに振り向けば洗濯機、家事をこなすのには使い勝手が良いことに気付きました。それに、家族が一つの部屋にいるため、会話が増え、ケンカもしますが、楽しく生活しております。
仮設住宅で元気に遊ぶ子どもたち
仮設住宅のお年寄りは、集会所で雑談会、子どもたちは、年齢に関係なく、野球、ドッチボール、鬼ごっこ、缶けりなど、体を思いっきり使って元気に遊んでいます。そして、親以外の大人に注意されたり、怒られたりと、昭和の時代を思わせる長屋独特の雰囲気があり、仮設住宅もなかなかのものです。
でも、いつまでも仮設住宅にいられるわけではないので、私たちは新たな土地を求めて家を建て、自主再建ができることとなりました。
秋から冬にかけ集団移転が決まっている地区もあり、来年度には半数以上の世帯が、自主再建に至ることでしょう。
震災直後より、日本はもちろんのこと、全世界の皆様から、沢山の支援や物資をいただいたことは、私たち被災者にとって、大きな支えとなりました。多くの人たちに助けてもらい、感謝しても足りないくらいの恩恵を受けました。皆さんの支援に答えるよう、私たちは、復興に向けて頑張ろうと思いました。
私達、親に今できることは、震災を乗り越えた子どもたちを元気にすることだと思うのです。子供たちが元気で笑顔がある町は、活気があり、必ず復興すると信じています。子どもたちも自分が育った町を好きになるとともに、将来、この町の復興・新生に携わってくれる責重な後見者になり得るのです。
今、私たちが子どもたちにしてあげるべきことは、将来の道しるべとなるよう見守り、不幸な出来事が起きても決してあきらめない人間に育てて行くことだと思っております。
最後になりましたが、大分県での経験は、この30人の子どもたちにとって、大変貴重な体験でした。
故郷の新地町では、大好きな海に入ることが出来ないため、子どもたちは久しぶりの海水浴に大はしゃぎしていました。子どもたちの「とびっきりの笑顔」を久しぶりに見ることが出来ました。また、農家・お寺での民泊も新たな体験をさせていただき、夏休みの課題作成に大いに役立つことでしょう。
この様なプロジェクトを企画していただきました皆様に心より感謝申し上げ、御礼の言葉とさせていただきます。本当にありがとうございました。
最後に、渡邊校長より、新地町少年主張大会にて、発表された尚栄中学校3年生、新地小学校の卒業生の発表を読み上げていただきました。
ハッピーバースデー 尚栄中学校3年
お誕生日おめでとう、大好きな家族からそう言って祝ってもらいながら、何の心配もなく穏やかに過ごすはずだった12回目の誕生日。待ち遠しくて仕方がなかった最高の日。その日が、14時46分を境に、日本人にとって1000年に一度と言われる程の最悪の日に一変してしまうとは夢にも思いませんでした。
2011年3月11日、その日は金曜日で、休日を迎える嬉しさに、少し気持ちが高ぶっていた私たち6年生は、最初の小さな揺れは気にもとめず、おしゃべりに夢中になりながらも下校準備を始めました。
自分の席へ戻ろうとロッカーからランドセルを取り出した瞬間、地の底から何か得体の知れない恐ろしい物が押し寄せてくるような不気味な地鳴りと立っていられない程の大きく激しい揺れに襲われました。あまりの恐ろしさに声も出せずにいた私たちは、先生方の悲鳴にも似た指示のもと、必死に校庭へ避難しました。教室では水槽の水が溢れ、あらゆる物が散乱し、廊下では所々で壁が崩れ落ち、プールの水は逃げる私たちに襲いかかるように暴れていました。
「もう止まって!」と心の中でいくら叫んでも揺れは収まらず、まるでアリ地獄に足を踏み入れてしまったかのような感覚に襲われながらも、皆必死で校庭の中心まで走りました。
全校生が身を寄せあい、ただただ揺れが収まるのを待ちました。やがて揺れも収まり、あちこちから泣き声が聞こえるようになり、やっと自分のおかれている状況が「現実」であると言う事を理解しようとしていたまさにその時、
「大津波警報が発令されました。ただちに高台へ避難してください。」
という聞き慣れない防災無線が、低く遠く町全体に響き渡りました。
その日の夕方、家族全員と再会出来た時には、それまで感じた事のなかった目に見えないものへの感謝の思いを自然と口にしていた事を、今でもはっきり覚えています。常に身近にいる家族のぬくもり、空気のような当たり前のものほど大切にしていかなくてはならないも、改めて実感する事が出来ました。狭いテントの中、ランプの明かりだけを頼りに家族全員で食べた誕生日ケーキの味を私は一生忘れる事はないと思います。
震災から約1カ月後、先生方や地域の皆さまをはじめとする多くの方々のご尽力のお陰で私たちの小学校でも卒業式が行われました。その数日後には中学校の入学式を無事に終える事が出来ました。
そして現在震災学年と呼ばれた私たちも中学3年生となりました。震災直後の一日一日はとても長く感じたものでしたが、家族と力を合わせ、必死に生きてきたその間に、2年4カ月もの年月が経っていました。
震災当時小学生だった私たちも自分の将来について考えなければならない年齢になりました。多くのものを奪い一生癒える事のない深い悲しみや例えようのない苦しみをもたらした東日本大震災。幼い頃から慣れ親しんだ釣師浜(つるしはま)一帯が、一瞬にして地獄へと化してしまいました。いつも穏やかに私たちを見守ってくれていた釣師の海が何もかも飲み込んでしまうなんて。
2年以上たった今でもまだその事だけはどうしても現実として受けとめる事が出来ずにいます。でも私は、この体験から漠然として抱いていた将来の目標を明確にする事ができました。それは社会福祉の資格を取って新しく生まれ変わった新地町で働きたいという目標です。
人と人との結びつきを福祉の現場で作り、あのとき、一番大変な思いをされた方々に今度は私が恩返ししたいと考えています。
これまで新地町を支えてくださった方々からのバトンを次の世代へと引き継ぐ役目を果たしたいと思います。
自然豊かで、住む人の心が温かい私たちの大切なふるさと、新地町を、震災のせいにして廃れさせてはいけないのです。
多くの方々の支援があって、復興できた事への感謝の気持ちを忘れてはいけませんが、復興した新地町をさらに新しい町へと再生させていく事が私たち「生かされた者」の使命であると思います。